変わる家

観劇の感想、コスメの記録等。

ノートルダムの鐘感想

大変お久しぶりです。

LIPSを始め、メイク関連はそちらに投稿しているのでよろしければ(https://lipscosme.com/users/7534540)もぜひ見てください✨

 

さて、今回は先日観劇した劇団四季の「ノートルダムの鐘」の感想です!

 

 

とにかくコーラスが美しかった……コーラスを浴びる舞台でしたね……。

友人によると、「普通(他団体など)だとコーラスは新人が担当したりするけど、劇団四季では主役を張るような人もコーラスに入ったりする」とのことだったのでそのおかげなのかもしれません。

スター制ではなく作品主義をとる意味が出ているんだな~と思いました。

聖歌が美しいと敬虔な気持ち(??)になりますよね。聖歌の美しさがすごく重要なお話だと思いました。

でもそういえばあれは誰の祈りだったのか。救いを求めていたのは誰だったのか……

 

それから、劇団四季は毎回セットの豪華さがすごい。

普段見る宝塚や2.5では絶対見られないセットのリアルさです。

ただ、私はセットを見たままを受け取るより、こちらで想像力を働かせる見方のほうが好きだなと思いました。

今回も、町の人が石像のように止まって石像兼町の人になる(?)ところに「おぉ!」っとなったりと、セットに頼らない部分がときめきポイントでした笑

 

中身に関して、ディズニー版のあらすじをチェックして行ったので最後の暗さに驚きました。

こんなに救いがない話だったとは……

 

怪物ってなんだったのかなと考えて、「色欲(下心、恋心)」だったのかなーと思いました。

差別とか、多様性を認めない心とかも悪ではあったと思いますが、作中一番許されていなかった罪は色欲かなと。

というのも、カジモドの恋が、意外とあまり肯定的な描かれ方じゃなかった気がしたんです。


守るためと言いつつエスメラルダを閉じ込めようとしたり、イケメンと「俺が助けるんだ」ってペンダントを取り合うやりとりとか、独占欲が出ちゃってるし。
エスメラルダにとっても、カジモドに恋をされるのは嬉しいことではなかったし……

 

ディズニー版だとエスメラルダとイケメンさんは逃げることができるけど、ミュージカルでは逃げられなかった。
エスをエジプトに逃した聖アフロディージアスの話が何回も出てきたから、てっきり彼のようにカジモドもエスメラルダたちを逃がすのかと思ったけどそうはならなかった。
聖人のような清らかな心を持てず、無意識だけど下心を持ってしまっていたからかなーと。

神父様は言わずもがな色欲に振り回されてましたし。あれ恋ではあるけどほとんど「色欲」だと思うんですよ。「この子なら俺の欲望を受け止めてくれる」という思いが暴走している感じ。権力あるこじらせおじさんに共感とかするととんでもない想われ方をしてしまうという、現実にもよくありそうな感じが最高に嫌でしたね……笑

神父様、娼館で遊んで娼婦に優しくしてもらったら少しはスッキリしたかもしれないのに……(最低


私が腐女子なのでうがった目で疑ってるんですが、神父様、弟のことも少し邪な目で見ていたのではと思ったり。
というのも、冒頭で弟が「兄さんは僕を愛しているからね!」ってキスしたのが気になったからです。
もちろん家族の親愛のキスだと思うけど、あれだけ童貞拗らせる神父様だから。人生で唯一体や粘膜を触れ合わせてくる弟に何か思うことあったかも。
親愛のキスが一般的でない日本でわざわざあの演出をする意味を考えちゃいますし、他のキャラで親愛のキスをする人を見なかった気がして……
唯一印象的な親愛のキスは、エスメラルダがカジモドにするところ。怪我したイケメンを預けて、よろしくね、っと去るところでキスをしていました。
でもあれ、カジモドが自分に惚れてるの分かっててやってると思うんです。親愛をはみ出ない形で、でもカジモドが自分に有利な動きをしてくれるように、利用したと思っています。強かな女性だし。
と、思うと弟と兄さんも怪しく見えちゃう。弟は狙ってないとは思いますが。

 

そう考えると、兄(神父様)は冒頭の時点で既に罪人なんですよね……近親相姦……
だから兄から弟への愛も、どこまでもプラスには働かない。神に祝福されない罪の愛なので。
さすがにこじつけ過ぎだとは思いますが。

 

本当の怪物は誰か。最初は「カジモドよりも他のみんなの方が差別するし我欲もあるし怪物」って思ったけど、考えてみたらカジモドがエスメラルダを差別しないのは心の優しさや清らかさからじゃなくて、物を知らなかったり、自分に優しくしてくれる人が他にいなかったりするからだし。
怒り狂って育ての親を殺してしまった行いは、結局怪物と言われかねないし。
熱した鉛を流したことでだって、人が死んだかもしれない。
と思うと結局カジモドも他の人もみんな欲ある限り怪物なのではと。

 

最後に民衆たちがカジモドと同じ泥?(痣?)をつけていくシーンがありました。

そのシーンを私は最初、「本当に醜いのはどっち?」と受け取りましたが、考えているうちに、「どちらか」ではなく、「みな同じ怪物」と受け取る方が正しい気がして。

同じ泥(痣?)で醜さを表現されるということは、「同じ醜さを持っている」ということですもんね。

だとすると、作中の悪、怪物とは、民衆だけが持ちカジモドにはなかった「差別」ではなく、双方が持っている「恋心(下心、色欲)」かなと思ったんです。

 


神は誰のことも救わなかった。
欲のまま自由に生きた男も、欲に負けた神父も、下心を知ってしまった鐘付き男も、異教徒の娘も。
教えを守り、欲を律して生きたなら救われたのか、はわからないけど。

 

ただ、原作の作者の方は「神は信じるがカトリックは批判する」スタンスらしいので、この解釈だとカトリック寄りになっちゃう気がするので違うかもしれません。

プロテスタント的に恋とかの扱いってどうなのかもわかんない……。

原作を読むとまた違った印象になるかもしれませんね。

 

 

では! 最後までお読みいただきありがとうございました!